後悔ばかりの人生を、居場所に悩む人の希望に変えたい。くずもとのプロフィール。
どうも、くずもとです。
プロフィールをまとめてみました。
葛藤やコンプレックス多めです。
親友にすら隠していたコンプレックスや、ずっと心の底に閉じこめていた思いもさらけ出しています。
居場所に悩む人の希望に変えたい、そんな思いで書きました。
最後までお付き合い頂けたら嬉しいです。
- 子どもの頃に芽生えた親への不信感
- あだ名のせいで自信を失う
- 家にも学校にも居場所がない…
- 高校では心機一転!のはずが…
- 音楽で見つかった「居場所」
- 念願の一人暮らし!
- バンド活動に熱中!それでも…
- 当時の彼女に言われた一言
- 周りに流されて進学し続けた結果…
- なかなか見つからないやりたいこと
- 原因は全て自分にあった
- ”生きづらさ”の正体
- 転機となった『ミレラボ』
- これから
子どもの頃に芽生えた親への不信感
小学生の頃から親に対して、不信感を感じるような子どもでした。
父は怒りっぽくて短絡的。
母は心配性で過保護。
極度の人見知りでしたが学校生活に馴染むと、夜遅くまで友達と遊び呆けていました。
「バイバイ、また明日!」と嬉しさで満たされながら家路につく。
ですが、門限を過ぎると鍵を閉められて家に入れてもらえませんでした。
はじめはドアを叩いて必死に抵抗していましたが、「何かあったら心配だから」を押しつけられることの繰り返し。
なんで、お父さんとお母さんは楽しみを奪おうとばかりしてくるんだろう…。
子どもの自分が何言ってもダメなんだな…。
暴力をふるわれることはありませんでしたが、不信感が芽生えはじめました。
そのうち、家では感情を出さないようになっていきました。
あだ名のせいで自信を失う
小学校5年で転校しました。
転校して1ヶ月、ようやく馴染んできた頃についたあだ名が、
苗字からとった ”クズ” 。
拒否したら、せっかくできた友達がいなくなるんじゃないかという不安から「嫌だ」が言えませんでした。
それからというもの、心のどこかで我慢をしながら過ごすようになりました。
いじめられることもなく、友達もできたけど、名前を呼ばれるたびにモヤモヤが湧いて心に残る感覚。
そしてあだ名のせいでネガティブなイメージがすり込まれ、自信をなくすようになっていきました。
家にも学校にも居場所がない…
その後、中学に入って強い孤独感を味わいました。
きっかけは、友達と縁を切ったことです。
同じ小学校、同じ少年野球チーム、そして同じ中学校に進学し、野球部でも一緒だった友達でした。
小学生の頃から人気者タイプでしたが、中学に入ると人の悪口を言ってポジションを保とうとしているように見えました。
そこに卑しさを感じて距離を置こうと決意。
ある日の部活帰り、話しかけられても一切口を聞かずに帰りました。
友達も察したのか、次の日から一緒に登下校することはなくなりました。
それからの中学校生活は絶望でした。
その友達が周囲に何かを吹き込んだのか、学校でも部活でも除け者扱いされて、嘲笑の眼差しを浴びるようになりました。
学校社会から孤立し、自信を完全に失って、生きた心地がしませんでした。
それでも弱音を見せたらつけこまれると思い、強がって何事もないかのように振るまう毎日。
逃げたら負けだと思い込んでいて、野球部にやめる勇気も、不登校を選ぶ勇気もありませんでした。
家にも学校にも居場所がない…。
親に相談せずに一人で抱え込んでいたので、本心を話せる場所はどこにもなく、ただひたすらに卒業までの時間を耐えていました。
高校では心機一転!のはずが…
同じ中学の人となるべく顔を合わせたくないと思い、地元から離れた高専に進学。
苦い過去を払拭するくらい充実した高校生活にしてやる!と意気込んでいました。
しかし、現実はそう簡単に変わりません。
中学時代にしみついた「素の自分では、誰も受け入れてくれない」という感覚のせいで、本心を閉じ込めて人と接するようになっていました。
自分の話題は口にせず、人の顔色を伺い、ニコニコしながら人の話を聞く。
人から嫌われることに怯えて、無個性なキャラを演じて人と接するようになりました。
当然、嫌われることはありませんでした。
でも、好かれることもありませんでした。
いてもいなくてもいいやつ。
笑顔を作るたびに虚しさが湧いてきました。
生きる才能ないなぁ…
そんなことばかり考えていました。
音楽で見つかった「居場所」
学校生活に虚しさを感じるようになった頃、転機が訪れました。
音楽、ロックとの出会いです。
虚しさや繊細さを不器用に爆発させたロックという音楽は、自分の気持ちを受けとめてくれる存在でした。
ロックバンドへの憧れからベースを始め、そのうちネットで知り合った人と一緒にスタジオに入るようになりました。
そして、好きなバンドのライブやフェスも一緒に見にいくように。
自分の思いを伝えようとしても、相手の顔色を気にして我慢していましたが、音楽を通じで知り合った友達にだけは、思ったことをありのまま伝えることができました。
素の自分でも受けいれてくれる人がいるんだ…!
音楽のおかげで居場所が見つかりました。
念願の一人暮らし!
そして、大学進学を機に上京しました。
親元を離れたくてしかなたかった僕にとって、念願の一人暮らしです。
中学以降、家族らしい会話はなくなり、親に自分の感情を知られるのが嫌で仕方ありませんでした。
部屋にいるときは、ベースを弾いたり、ライブDVDを見たり、リラックスできる。
でも、リビングで親と顔を合わせると、無表情スイッチを入れて感情を抑圧する感覚。
そんな生活をしていたので、実家が心落ちつく場所ではありませんでした。
実家を出れば、本音にフタをする原因がなくなる!
奪われ続けてきた自由をようやく手にした気持ちでした。
バンド活動に熱中!それでも…
大学では軽音サークルに入り、コピーバンドで演奏活動をスタート。
バンド活動が楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。
ベースという楽器で、楽曲のリズムとメロディを支える役目を担っていること。
ライブで自分たちの演奏を通して、観客と一緒になって盛り上がった時の一体感。
人とつながる喜びを強く実感するようになりました。
それまで、素の自分では誰も受け入れてくれないと思って、
周りの顔色ばかり気にして、本音を我慢してしまったり。
深入りして傷つくのが怖かったから、壁を作って接したり。
コンプレックスに苦しんでいても、強がってニコニコしてみたり。
そんな自分がベースを弾くときだけは、存在を肯定してもらえたような、そして、誰かの役に立つ喜びを知った経験でした。
ですが、それでもまだ、心が乾く感覚がこびりついて離れませんでした。
ベースを弾いている時は自分を表現できる、でも、普段の生活では自分をさらけ出す勇気が持てない…
過去のトラウマとちゃんと向き合えない、臆病な自分がいました。
当時の彼女に言われた一言
本当の自分は、きっと誰にも理解してもらえない…
そんな思いがずっとあったので、恋愛も臆病で、初めて彼女ができたのは20歳。
これまで二人の女性とお付き合いしましたが、どちらも半年も持たずにフラれて終わりを迎えました。
理由はどちらも「友達としてしか見れない…」
自分の弱い部分をグサッと刺されたような言葉でした。
親との関係や、中学時代のトラウマ、普段ニコニコしている内心で渦巻くモヤモヤとした感情。
暗い過去や闇みたいなものを少しでも出してしまったら、嫌われるんじゃないかという不安が常にありました。
もっとお互いのことを知って深い関係を築きたいと思っても、一歩踏み込むができませんでした。
今振り返ってみると恋愛とは名ばかりで、よそよそしくて、ぎこちない関係でしかなかったように思います。
付き合っているといっても会う回数が月1〜2回と少なく、なかなか距離は縮まりませんでした。
本当はもっと会って話をしたかったけど、その思いもフタをして押し殺してしまったり…
意思疎通が思うようにとれず、後悔ばかりしていました。
周りに流されて進学し続けた結果…
その後、大学を卒業して大学院に進学。
進学の理由は「就職に有利になるから」という安易なもの。
将来を真剣に考えることもなく、なんとなく社会のレールを進んでいきました。
そして、本格的に研究活動がスタート。
しかし、全くといっていいほど熱が入りませんでした。
就活を乗りきって修士論文に専念するだけになった途端、バーンアウト。
このままレールを進んでも、暗い人生しか待っていないないように感じて中退しました。
なかなか見つからないやりたいこと
大学院を中退してからは、”やりたいこと探し”を始めました。
ITのスタートアップでインターンを6ヶ月。
学習塾で副校舎長を9ヶ月。
その後、現在は出版社と音楽スタジオのバイトを掛け持ちしてます。
関心のあることにチャレンジしてきましたが、長続きしませんでした。
今でこそ原因をしっかりと受け止められるようになりましたが、当時はなんだかんだ理由をつけて、適職探しを繰り返していました。
原因は全て自分にあった
短期間で職を転々としていた理由は、自己逃避を繰り返していたからでした。
居場所に飢えてきた人生、心の底ではずっと閉じ込めた思いも表現できる場所を求めていました。
しかし、いろんな環境に飛び込んでみるものの、少しでも居心地の悪さを感じるとすぐに他の環境を探す。
その繰り返しでした。
今になって思えば居場所が見つからないのも当然でした。
「どうせ誰も自分のことをわかってくれない…」と殻に閉じこもるのではなく、コミュニケーションをていねいに積み重ねて相手を知る。
そして、少しずつ相手との信頼関係を築いて、自分を知ってもらうこと。
自分が乗り越えなければならない課題は、自分の中にありました。
”生きづらさ”の正体
生きづらさの正体は、ウソで自分を固めてしまうことなんじゃないかと思います。
自分で勝手に自分をがんじがらめにしてしまうというか。
原因は全て自分にあるんじゃないかと思うようになりました。
これまで僕が抱えてきた生きづらさも、全て自分が作り出したもの。
欠点や短所、コンプレックスを隠して、人に好かれようとばかりしていました。
そして僕は、親友に対しても、弱さを隠して自分を偽ってしまいました。
先ほど、これまでの恋愛について少しお話しましたが、ぶっちゃけてしまうと付き合ってもその先の関係には発展しませんでした。
肉体関係というか…
いわゆる童貞というやつです。
そのことを隠して、ずっとウソをついて接していました。
大学時代、それこそ恋愛の話題も多く飛び交う環境の中、その話題が出ることを恐怖に感じていました。
童貞であることがバレて、バカにされるのが怖かったから。
そういう話題が出そうになると、
しれっとその場から抜け出そうとしたり、
無理やり話題を変えようとしたり、
ついにはウソをついてしまいました。
親友にも。
その結果どこにいても居心地が悪く、ますます自分の殻に閉じこもるようになりました。
原因は、全て自分でした。
この記事を書くまえに何人かの親友に、初めてそのことを打ち明けました。
話す前は
「バカにされないかな…引かれないかな…」
といろんな不安が浮かんできました。
それでも、いざ勇気を出して話してみると全然そんなことはありませんでした。
バカにされることもなく、真剣に話を聞いてくれました。
その瞬間、背負った重たい荷物を下ろした時のように心が軽くなった感覚でした。
苦しみやコンプレックス、そういう弱い部分も受けとめてくれる人がいることを実感できることで、生きづらさはなくなっていくんだなと思いました。
転機となった『ミレラボ』
ここまで自分をさらけ出せるようになったのは、大きな転機があったからです。
今年の3月に『ミレラボ』というオンラインサロンに入りました。
あんちゃさんとイチハヤさんのお二方が運営をされているサロンです。
「生き様で人を動かす」という言葉に惹かれて参加しました。
あんちゃさんは、メンターのような存在。弱さと向き合って、自らの手で人生を切り開ている姿に、刺激をもらいまくっています。
ミレラボに入ったきっかけは、あんちゃさんのブログでした。
イチハヤさんは、言葉で人を刺す名人。これまで何度も、自分の弱さや足りない部分を気づかせて頂きました。グサグサと刺してきます。容赦ないです。
お二方や他のメンバーとの出会って、いろんな人生に触れる機会を得られたことで、自分の人生、そして自分の弱さと向き合えるようになりました。
そして、過去に味わった苦しみやコンプレックスが、同じに悩みを抱える人を勇気づけるコンテンツになることを学びました。
であれば、ネガティブ多めなこの人生も誰かの力になれるのではないか。
そう感じて、ありのままの自分を全て出して、発信活動に挑戦しようと思うようになりました。
これから
ずっと失敗を恐れて、挑戦を避けてきた人生でした。
好きなことも、人間関係も。
全部が中途半端。
いわゆるチャレンジ童貞というやつです。
25歳になってようやく、そんな人生を変えたいと思うようになりました。
そこで、何に挑戦しようかと考えた時にすぐに『音楽』が心に浮かびました。
ロックに心救われた人生、僕も音楽で誰かの力になりたい。
ということで、音楽活動に挑みます。
目標はプロになること。
高校生の頃の自分が聞いたら「絶対無理」としか返さないような目標です。
いい歳したやつが夢とか語ってダサいと思われるかもしれません。
それでも、だからこそ、挑戦してみようと思っています。
何年かかってもいい。
諦めずに挑み続けていく姿勢を通して、僕と同じような苦しみを感じている人の希望になりたいと思っています。
そんな人間もいることに興味を持っていただけると嬉しいです。
応援してもらえるとなおのこと。
Twitterでも日常的な気づきを発信しているので、フォローしてもらえると嬉しいです^^
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Twitterアカウントはこちらです!
”挑戦に年齢は関係ない”ことを自分の人生で証明したい。
こんにちは、くずもと(@kzmtmzk)です。
この記事では、大学院中退から現在までの歩みと、これからの決意を書きました。
こんな人間もいるんだと興味を持っていただけたら嬉しいです。
大学院を中退して、ようやくスタートラインに立った
僕の人生は、2年前に大学院を中退してから始まりました。
それまでは意志もなく、高校〜大学〜大学院という社会のレールに乗るだけの日常。
情報工学を専攻して感じたことは「やりたいことじゃなかったなぁ…」でした。
しかし、一度乗ったレールから外れる勇気もなく、惰性で進学を繰り返しました。
将来のことをちゃんと考えるようになったのは、大学院で就活を迎えた頃です。
ずっと心の違和感に背いてきた人生が、これから先も続いていくことを想像すると苦しくなって、退学を決断しました。
やりたいこと探し
できること(専門分野)の中で将来を考えていたことを反省して、やりたいこと探しから始めました。
ITベンチャーでのインターン、学習塾での勤務を経験して、現在は出版社にパートタイムで勤めています。
転々としていますが、どれも自分の意志で決断したことなので後悔はありません。
専門性も持たない中で働くチャンスを頂けたことに感謝しています。
ただ、目的にあった答えは見つかりませんでした。
大企業志向に捉われすぎていた反省から飛び込んでみたITベンチャーでは、B2Bにどこか対ヒトではない無機質さを感じました。
お客様自身と関わる仕事がしてみたいと飛び込んだ学習塾では、夜型の生活リズムが合わなかったり、高校生のほとんどが大学受験を人生のゴールと捉えている状況にやるせなさを感じました。
そこから、読書が好きだから本の制作に関わってみたいという興味と、友人の紹介もあって出版社に飛び込みました。
しかしパートの仕事がら、ひとりで完結するタスクばかり。
内向的な気質の自分には合ってるけど、コミュニケーションが希薄でモヤモヤするようになりました。
答えは自分の中にあった
今年に入ってから、学生時代にやっていたベースを久しぶりに弾いてみました。
指先でリズムとメロディを表現する心地よさがたまりませんでした。
脳に浮かんだ言葉は「これだ!」
それからというもの、現在毎日ベースを弾いています。
そのうち、フタをしていた音楽への気持ちを思い出すようになりました。
「やりたいことが見つかった気がする…!」
やりたいことを自分の外側に探し求めていましたが、答えは自分の中にありました。
ロックに心が救われた人生
僕は学生時代、傷つくのが怖くて自分の殻に閉じこもっていました。
でも心の片隅でつながりに飢えていて、ドロドロとした感情が溜まっていく毎日。
そんななか、鬱屈とした想いに寄り添ってくれたのがロックでした。
休み時間になるとクラスメートの談笑の輪に加わらず、すぐさまイヤホンをして机に顔を伏せてウォークマンでロックを聴いていた高校時代。
ロックのおかげで「僕はひとりじゃないんだ…!」と思えました。
純粋な憧れからベースを始め、大学に入るとコピーバンドで演奏活動をスタート。
バンド活動をするようになって初めて、人とつながる喜びを実感しました。
リズムとメロディを支えるパートとして他のメンバーの役に立てた喜び、ライブで手拍子をして観客と一体感を作り出せた時の喜び。
少しだけ殻から飛び出す勇気と自信を手にした経験でした。
今だから言葉にできる自分の弱さ
バンド活動で少しだけ自信と勇気を手にしましたが、本音にフタをしてしまうクセはなかなか抜けません。
心のどこかで「本当の自分をわかってくれる人はいない…」と壁を作ってしまう感覚。
原因は子どもの頃の経験にあります。
- 小学生時代のあだ名のせいで、本音にフタをするようになったこと
- 親からモノみたいに扱われているような感覚のせいで、家に居心地の悪さを感じたこと
- 中学時代、親友と縁を切ったせいで、味方が誰もいなくなって学校に居場所を失ったこと
長い間「家にも学校にも居場所がない…」と感じて、殻に閉じこもっていました。
そんな人間でも自立して社会で生きていかなければなりません。
弱さをさらけ出して生きていくか、仮面を被って生きていくか。
選んだのは後者、ラクな道でした。
そこそこ器用だったせいか、心の底に抱えた乾きを表に出すことなく社会を生き抜く術は身につきました。
しかし、人と関わる中で喜びや嬉しさを感じても、虚しさが引っついて離れない感覚。
思い返せばITベンチャーでインターンをしていた時、正社員にならないかと提案して頂いたことがありました。
自分の存在が認められたようですごく嬉しかったのですが、同時に恐怖心もありました。
ここは本当に自分の居場所なのか。
結局自分をさらけ出す勇気はなく、逃げてしまいました。
その後も、いろんな環境に自分の居場所探しを繰り返す人生。
原因は、自分の弱さを受け入れて、人と真剣に向き合おうとしなかったからなのに。
ラクな道に逃げ込んでも心は救われませんでした。
変わるチャンスはたくさんあったのに逃げ続けてきた、
自分の弱さから目を背けて人生に諦めを感じていた、
そんな人生を変えたいと思うようになりました。
25歳からの挑戦
25歳を迎えた今、ようやく志が見つかりました。
ー人生に諦めを感じる人の力になりたいー
殻に閉じこもっていた僕をロックが救ってくれたように、今度は僕が生きづらさを抱える人の心に届く音楽を創りたいと思うようになりました。
音楽の知識や経験・実績はこれからです。
独学でベースや音楽理論、DTMなど音楽の勉強を始め、新しくバンドも組んで0からの挑戦をスタートしました。
かつてフタをしてしまった音楽への思いに、今はしっかりと向き合ってみたいと思っています。
そしてもう一つ、自分の人生で証明したいことができました。
ー挑戦に年齢は関係ないー
音楽が好きという気持ちに従ってひたむきにアクションを起こし続けることで、自分の人生がどう変わるのかを試してみたい気持ちもあります。
25歳からのスタートなので世間的には遅いと考える人が大多数かと思います。
それでも、僕の不器用な生き様を通して誰かの力になればいいなと思っています。
最後に
最後に、1つ無様を晒して締めくくりたいと思います。
音楽を学びたいという思いから、レコーディングエンジニアのアシスタントを募集している企業に興味を持ったので、思いの丈を綴って応募しました。
その時の手紙がこちら。
結局、連絡はきませんでした。
後から振り返って、未経験からの応募は拒絶されるよなぁと、絶望した気分になりましたが、チャンスだと感じたところにはどんどん飛び込んでいくと決めました。
そんな人間もいることに興味を持ってもらえたら嬉しいです。
最後までご覧頂きありがとうございました!
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やりたくないことは続かない。大学院を中退して感じたこと。
こんにちは、くずもとです。
今回は、記事タイトルの最初の一文がすべてです。
これまでの経験から、やりたくないことは続かないと考えています。
根性や忍耐、我慢という言葉を重んじる考え方もあるかと思いますが、心の違和感に背いた生き方はどこかで破綻すると思います。
社会のレールに沿ってなんとなくで生きてきたこと、そして大学院中退を自分の意思で決断して、そう感じるようになりました。
できることから将来を考えていた
少数派になりますが、僕は高専に進学し、高校から理系の道をバリバリ進んできました。
将来の選択肢を探したり、大学受験に向けた勉強する高校とは違って、高専は技術者になるための勉強をする場所です。
エレクトロニクスやプログラミングを専攻していたので、いずれはエンジニアにでもなるんだろうなとぼんやり考えていました。
ただ、高専で学ぶうちにやりたいことじゃないなぁと感じるようになりました。
しかし、レールに乗ってしまった以上そこから外れる勇気もなく、ダラダラと学校生活を送っていました。
そして当時は『働く=我慢と引きかえにお金を稼ぐこと』だと思っていたので、働きたくないというニート的発想から、大学編入を選択しました。
盲目的な進路選択と研究室配属
大学に入ってからも自発的に学習する熱量は全くといっていいほどなく、単位を取るためだけの勉強が続きました。
そして必要最小限の単位を取得して4年生に進級しました。
このタイミングで進路の選択を迫られます。
学部卒で就職活動を始めるか、大学院に進学するか。
9割の学生が進学する学部だったので、周りに流されて大学院進学を選択しました。
また、4年生で卒業研究がスタートするので研究室配属がありました。
就活時に有利になる研究室に入ろうという打算的な理由から、ブランド力のある教授の研究室に入りました。
研究が苦痛で仕方がない…
1年間の卒業研究を終えて無事に大学を卒業し、院生活がスタートしました。
ただ、大学院に入ってから研究が苦痛で仕方がなく感じるようになりました。
卒業論文では先行研究の補助で単位をもらえましたが、大学院では主体的に研究活動をしていく姿勢が求められます。
就活が有利になるという甘い考えで進学した僕に、学問を探求する熱量はありませんでした。
そのうち教授にも目をつけられるようになりました。
高圧的で、学生の意見に否定から入るタイプで、学生の主体性を削ぐ印象がありました。
輪講では、研究意欲がない人の報告にはダメ出しばかりで、見世物のように扱われていました。
目をつけられた僕も輪講の度にみんなの前で、否定され、怒られ、自信をなくすことを繰り返すようになりました。
だんだんと「自分はダメなヤツ」というイメージが刷り込まれ、常にビクビクしながら研究生活を送っていました。
それでも、この2年を持ちこたえれば、大企業に就職して辛さから抜け出せるという思いが唯一の支えでした。
人生の目標だった就活が終わって…
院生活が1年経って就活がスタートしました。
通信キャリアやメーカー、SIer業界の大企業を中心に10社ほどエントリーして選考を受けました。
そして幸い、大手のSIer企業から内々定を頂くことが出来ました。
最終面接終わりの夜、帰宅途中の公園で内々定の一報をいただき、喜びでいっぱいになりました。
「大学を出たら明るい未来が待ってる」と思いました。
あとは修士論文に向けて研究に専念するのみとなりました。
しかし、就活で人生の目標が達成されたので燃え尽きた感覚がありました。
「あと半年耐えれば修了、でも楽しくもない研究を教授との関係に耐えながらやっていけるだろうか…」と感じました。
先輩の就活時の様子を見ていて、研究が疎かになると扱いがひどくなっていたので、これからの半年が恐怖でしかありませんでした。
だんだんと研究をサボるようになりました。
退学を決意するまでの苦悩
朝、支度を済ませて行こうと思っても、不安から研究室に向かう勇気が湧きません。
「あと30分したら研究室に行こう」
「あと1時間したら行こう」の繰り返し。
1日中家に引きこもっては動画をみて、現実逃避をするようになりました。
そうして数日が過ぎていくなかで、”退学”が頭をよぎるようになりました。
「研究はもう頑張れそうにない…でも修了しなかったら内々定取り消されるのかな…」と大学院を中退された方の体験談をネットで読み漁っていました。
教授との関係性が原因だと理解を示してくれる企業は少ないとか、修了見込みで就活をしたから修了出来なくなれば取り消されるのが普通だとか、辞めて就活をし直す場合、新卒との競争に勝って就職先を見つけられるのかとか、そういう情報を見ては不安が増していきました。
一度だけ学内カウンセラーにも相談してみました。
しかし「あと半年なら無理にでも頑張れない?」という言葉を聞いて余計にモヤモヤが強くなり通うことをやめました。
寝ても覚めても苦しい思いが襲ってきて、体も重く生きた心地がしませんでした。
そうしてさらに数日悩んだ末、ようやく踏ん切りがつきました。
これまでの人生を振り返って「どんなに意欲の湧かないことでもサボったり逃げ出したりしたことのない自分が、ここまで拒絶するのであればもうやめよう」と感じました。
そして、中退の意思があることを内々定を頂いていた企業にも相談しました。
この頃は事情を説明すればわかってくれるだろうと、あわよくばで内々定が取り消されずに済むことを期待していました。
しかし対応して頂いた人事の方に相談した時もまた「あと半年なんだから頑張れない?」と言われました。
何度か電話や対面で相談に乗って頂いたのですが、「忍耐がない」と見下すような雰囲気を感じて嫌気がさすようになりました。
(被害妄想もおおいに混じってます)
そして、失礼極まりないですが「こんな人が人事をやっているところなら、無理して半年頑張って就職しなくてもいいや」と感じるようになりました。
結局、大学院中退の意思も変わらず、内々定辞退という形で扱われることになりました。
あとは学生指導の教官に承諾をもらって退学手続きを済ませるだけとなりました。
研究室の変更や休学を提案されましたが、専攻していた分野自体に興味がなかったことを打ち明けると、理解を示してくれて滞りなく手続きが完了しました。
2017年7月に大学院を中退しました。
その後
退学手続きが完了したという報告を学生指導の教官から頂いた時、晴れやかな気持ちで満たされました。
何もかも失ったけど、自分の意思で下した決断に後悔はなく、これからの生活を前向きに考えられるようになりました。
そして退学を迷っていた頃は、就活をし直そうか考えていましたが、今すぐに就活するのはやめようと考えるようになりました。
専門スキルがなくなった上に、ネガティブな要素が増えた状態で新卒採用で戦っても勝ち目がないだろうと思ったことが一つ。
そして、就活時は安定志向で大企業しか見ていませんでしたが、対極にあるベンチャー企業に興味を持つようになったことが一つ。
インターンから経験させてもらえるを探そうと思い、Wantedlyというサイトでベンチャー企業のインターン募集に応募するようになりました。
インターンということもありますが、ベンチャーの面接は新卒採用に比べてかなりラフでフランクでした。
大学院を中退した経験も、そこまで悲観的に捉える人が多かったのが印象的でした。
まるで別世界に飛び込んだように感じて、色んな人がいるんだなと思いました。
そして、退学から1ヶ月後には当時設立2年目のITベンチャーでインターンとしての新しい生活がスタートしました。
最後に
冒頭でも書きましたが、僕はやりたくないことは続かないと考えています。
本心にフタをしてしまったり、違和感を押し殺していくうちに、心に歪みが生じて、いつか自分自身を苦しめる存在になります。
もし、周りに流されて進路選択をしてしまって、行き詰まりを感じるのであれば考えてみてほしいことがあります。
これまでの人生で、何をしている時間が好きだったか、時間を忘れるくらい夢中になった経験はなかったか。
これは退学してから僕が実際にやっていたことです。
頭がスッキリしている朝に、紙とペンを用意して自問自答していました。
僕自身、本音にフタをして生きてきた時間が長かったので、見つけるのに時間がかかりましたが、答えは自分の内側にありました。
そして、やりたいことから人生を考えるようになるとワクワクする時間が増えました。
この記事がやりたくないことを続けてモヤモヤしている人の心に寄り添える存在になれば幸いです。
最後までご覧頂きありがとうございました!
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”クズ”の生き様で、生きづらさを抱える人の力になりたい。
はじめまして、くずもとです。
初めての記事ということで、生い立ちと志を書きました。
さてここで、唐突なのですが、
”クズ”という言葉にどんなイメージを抱きますか?
- 役に立たない
- 価値がない
- 無駄な存在
というイメージを連想をする人が多いんじゃないかと思います。
どれもネガティブなイメージですよね。
自虐的に使うことはあるかもしれませんが、好んで使う人はいないと思います。
僕もその一人です。
むしろ人並み以上に”クズ”という言葉が嫌いです。
小学校から中学校にかけての、ぼくのあだ名だったからです。
それからの人生、生きづらさを抱えるようになりました。
そんな人間の生い立ちを少しだけお話しさせてください。
泣き虫だった幼少期
両親共働きの家庭に、一人っ子として生まれ育ちました。
小学校4年生までは、高知県の田んぼと山が広がる自然豊かな田舎町で暮らしました。
一番古い記憶は、幼稚園に初めて通う日のことです。
周りの園児たちは、親に手を振りながら楽しそうに送迎バスに乗っていくなか、ひとりだけ母の足元にしがみついて、泣きじゃくりながらバスに乗ることを拒否していました。
未知の世界に怯えていたことを今でも覚えています。
小学校低学年まではとにかく泣き虫でした。
近所の同い年の女の子に、よく髪を引っ張られて泣かされました。
泣いて家に帰るたびに、親に「男なら強くなりなさい」と呆れた様子で言われていました。
そして、かなりの人見知りでした。
初対面の人と会うと親の後ろにサッと隠れるみたいな。
幸いにも全校生徒30人・同級生8人の小学校だったので、みんな顔見知りで馴染むことができました。
毎日夕方遅くまで友達と遊んでいました。
転校先でついたあだ名
小学校5年生の時に、転勤で福岡県の学校に転校しました。
全校生徒が700人・1クラス30人を超える学校で、あまりの人の多さに、隠れていた人見知りが出てくるようになりました。
1ヶ月くらいは環境に馴染めず一人で過ごしていました。
そこから少しずつ話ができる人が増えてきた5月のある日のこと。
クラスメート数人と公園で遊んでいる時に「そろそろあだ名決めよう」とあだ名を考えてくれることになりました。
しばらく間が開いた後にクラスメートの1人が一言、悪意はなさそうなそぶりを見せて「じゃあクズはどう?!」と。
僕は固まりました。
心がズキンと痛んで「イヤだ!」と訴えてきました。
でも頭で「ここで拒否したらもう遊んでくれなくなるかもしれない」という恐怖も浮かんできました。
他のクラスメートが「それはさすがに…」といった様子でニヤついていました。
数秒固まったまま、心と頭が激しくぶつかり合いました。
結局返した言葉は「うん」でした。
「じゃあね」と解散してからの帰り道、ずっとモヤモヤしていました。
本音にフタをする人生の始まり
その夜、食卓で両親に相談しました。
「クラスメートにあだ名をつけてもらった。でも”クズ”ってあだ名で、ゴミ箱みたいでイヤだ」と感じていたことを打ち明けました。
その言葉で食卓が静まり返ったことを覚えています。
空気が重くなり、両親の表情が悲しそうなものに変わりました。
その時、親を悲しませてしまった自分がイヤになりました。
その日以降、親に相談することをやめ、自分の中に閉じ込めるようになりました。
それからはあだ名で呼ばれるたびに悲しい気持ちになりました。
でも平気なそぶりをしていました。
肉体的ないじめに発展することもなく、友達の輪に加わって楽しく過ごしてはいたのですが、自分に対してネガティブなイメージが刷り込まれて、どんどん自信をなくすようになりました。
そうして自分の心に嘘をつくことを積み重ねていくうちに、日常のいろんな場面で言いたいことがあっても我慢するようになりました。
そうして無気力な小学校〜中学校生活を送っていました。
人生で唯一熱中したモノ
高校入学後に人生で唯一熱中するものと出会いました。
ロック、ベース、バンド活動です。
BUMP OF CHICKENというバンドでロックという存在を知り、そのかっこよさに影響を憧れてベースを始めました。
授業が終わったらすぐに家に帰って、夕飯以外の時間はずっとベースを弾いていました。
そして大学進学後に軽音サークルに入って、コピーバンドで演奏活動をするようになりました。
このバンド活動の経験が、僕にとってかけがえのない時間でした。
人から傷つけられるのが恐くて殻に閉じこもってきた自分にとって、人とつながる喜びを実感した経験でした。
色んな人からバンドに誘ってもらえることも嬉しかったし、誰かと一緒にクオリティー高いものを作り上げていくことも楽しかったし、ライブで演奏を披露した後にカッコよかったと言ってもらえたことで、以前に比べると、自信が持てるようになりました。
今でも拭えない生きづらさ
バンド活動をするようになって、人とつながる喜びを知りました。
ですが、今でも本音にフタをするクセはなかなか抜けません。
あだ名の件の他にも、学生時代に人間関係で悩んだ経験から、傷つくのが恐くて人と真剣に向き合うことから避けてきました。
周りの人が楽しそうにしているのをみると、ぼくも楽しい気持ちにはなるのですが、どこかで虚しさがつきまとっていました。
「この人たちとは分かり合えない…」。
自分の笑顔が偽物に感じて、自己嫌悪に陥りました。
幸運にも、悩みを聞いてくれる親友と出会えたので、理解してくれる人がいればそれでいいと思って、仮面を使い分けるようにして生きてきました。
ただ、人によって自分を使い分けるように接していると、虚しさや苦しみ、罪悪感がつきまといます。
一生こんな苦しい思いをするのはイヤだ。
本音で人と向き合えるようになりたい。
そう思うようになりました。
そのためにも、今の自分がきちんと向き合わないといけないのは、自分自身だと感じるようになりました。
誰のために、何のために生きるのか
自分の殻に閉じこもって、人生に諦めを感じている人に「人生何歳からでもスタートできる」ことを、自分の生き様を通して伝えたい。
ぼくの志です。
本音にフタをするようになって、
自分に自信がなくなっていって、
人から嫌われるのが恐くなって、
自分の殻に閉じこもるようになって、
失敗が恐くて挑戦を避けて、
人と真剣に向き合うことから逃げてきた。
そんな自分だからこそ、生きづらさを感じる人の力になれるんじゃないかと思っています。
20代からのスタートです。
過去の怠惰な自分を恨むこともあります。
それでも自分の弱さと向き合っていこうと決意しました。
そこで出てきた気づきを発信していきます。
同じ悩みを抱える人にとって「自分も頑張ろう」と思ってもらえたら嬉しいです。
最後までご覧いただきありがとうございました!